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母が言った厳しい言葉は、私のことを思って言ってくれた言葉だと思います。

そのおかげで冷静に人生の選択について考えることができたと最近改めて実感しました。

 

母が言った言葉をそのまますべてMizukiに伝えると誤解が生じてしまう可能性があります。

言葉と文化に違いがあるので、状況や背景を理解できないことは度々起こってしまうのです。

なので私はいつも状況の一部のみをMizukiに伝えることにしています。

Family_in_Keelung_Taiwan
左から母、父、弟です。この写真は2009年、地元の台湾・基隆でハイキングをした時の写真です。

 

 

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2011年 春

Mizukiと私は、このときすでに約4年の遠距離恋愛を続けていました。

東京と台北でお互いを支え合いながらの生活していました。

どこかのタイミングで一緒に生活ができればと考えてはいましたが、具体的に計画するには至らず

良いタイミングというのも見つけられずにいました。

 

そんな2011年3月11日、日本で巨大な地震が発生しました。

その日はほぼMizukiと連絡を取ることができませんでした。

彼女の携帯電話がまったく繋がらなかったのです。

私はすごく心配になって、日本語が話せる同僚にお願いしてMizukiの会社に電話をかけてほしいと頼みました。(当時私は今ほど日本語を話すことができませんでした)

しかし、彼女の会社の電話もつながりませんでした。

 

しばらくしてメールでやり取りができるようになり無事は確認できホッとしたのもつかの間、

セキュリティのためすべてのエレベーターは停止しているという連絡がありました。

エレベーターが動かなければ、Mizukiが動ける範囲は限られてしまいます。

結局、彼女は自分で会社・地下鉄・マンションの階段を上り下りして、彼女の同僚が車イスを運んでくれたそうです。

しかし、マンションまでたどり着いた後は、他の人の助けなしに自分の部屋から出ることはできなくなってしまいました。

 

3月13日、Mizukiのマンションのエレベーターが動き始めました。

食料確保のため急いで最寄りのスーパーに行くと、そこは人で溢れ、棚からはほとんどの食料がなくなっていました。

 

またその地震は福島の原子力発電所も襲いました。

東京へ電力を供給していたこの発電所がダメージを受けてしまったため、東京周辺では節電が余儀なくされました。

東京に加えて8県が計画停電を実施を決定。

余震も続き、エレベーターの作動も不安定だったため、Mizukiはそのあと1週間ほどまた家から出ることができなくなりました。

自宅に確保していた食料は1週間分ほどと聞き、私は本当に心配になりました。

オートロックのマンションなので、友人に食料を届けてもらうにしても、

非常階段をMizukiが自分で降りて内側から解除しないと人を入れることはできません。

 

その地震が起こってから、福島の原発のニュースからどうしても目が離せませんでした。

原発内部の様子について毎日公表される情報は不安を煽るものばかり。

私はMizukiに台湾に来てくれないかと頼みました。

またMizukiの家族も一緒に台湾に来て欲しいと伝えました。

しかし、彼女は今の仕事でもう少しキャリアを積みたいからと断ってきたのです。

私の不安は大きくなるばかりでした。

 

Tokyo-after-earthquake
地震が起こった1週間後、私は東京を訪れました。福島の原発のニュースをとても心配していました。ニュースの中には、雨の中に放射能が含まれいていうものも。私はどうすればいいかわからず、80枚入りのマスクを台湾で買い、日本にいる間は帽子を被って少しでも放射能から身を守ろうと必死でした。

 

Mizukiのことを心配するあまり、私は自分の仕事に集中できなくなっていました。

そこで決めたのです。台湾での仕事を辞めて私が東京に行こうと。

私の両親はこの計画に大反対でした。

 

父は東京での生活費は台湾に比べて高額であること、また外国人に対して平等な仕事の機会がない環境を心配していました。

日本で生活すると私は絶対に苦労すると言いました。

母は理由は言わずただ「No」とだけ言ってきました。

私に説得するチャンスさえも与えたくなかったのでしょう。

 

日本での計画をきちんと父に説明したいと思った私は、2年間のキャッシュフローチャートを作りました。

生活拠点を東京に移す方が理論的にもキャリアの可能性としても良いものが得られるということを証明してみせたのです。

(ちなみに、このキャッシュフローチャートもキャリアプランも実際には実現しませんでした。現実と理想は大きくかけ離れていました。)

父は私の提案を見て何もコメントを言わず、ただ笑っていただけでした。

このような笑った表情を見せるときは、頭のなかでいろいろな事を考えているサインであることを私は知っています。

逆に、母に対しては、どんなアプローチ方法で説得すればいいかわからず、何も試みることはありませんでした。

ただ父を説得することに注力したのです。

 

2011年 7月

Mizukiは自分の思いや考えを私の両親に伝えたいと言い出しました。

しかし、言葉の壁があり直接声に出して伝えることは難しい状況がありました。

そこで、彼女はまず自分の思いを英語で 書き、私がそれを中国語に翻訳をすることに。

そのあと、Mizukiはその中国語を1つ1つ手書きで便箋に書いていき手紙として両親に渡すことにしました。

(日本には、重要なメッセージは手書きで準備するという習慣があります。パソコンなどで打った文字より、手書きのほうがフォーマルなものと考えられるようです。)

Mizuki wrote a letter to my parents to help my parents understand Mizuki more and hoped to earn their trust.
Mizukiが私の両親に渡した手紙です。少しでも理解してもらい、信頼を得たいとMizukiは考えていました。

 

私の東京での生活はMizukiがしっかりサポートしていくと両親に直接伝えるため、彼女は台湾にやってきました。

父がMizukiから手書きの手紙を受け取ったとき、とても感動した様子でした。

そして、やっと父から日本へいく許可が下りたのです。

 

手紙を読み終えた父は、1つだけ Mizukiに質問をしました。

「あなたは子供を産みたいと考えていますか?」

日本の文化では失礼な質問かもしれませんが、台湾では将来お嫁さんとして来る女性に対して、両親がよく尋ねる一般的な質問です。

Mizukiはこの質問にすごく驚いた様子でした。

というもの、まだ当時は付き合っているだけで結婚の話は一切出ていなかったからです。

 

その後、私とMizukiが2人きりになったとき、Mizukiは泣きながら父の質問は失礼だと言ってきました。

父を擁護したい気持ちもありましたが、変に誤解が生じてしまうのではと思い、私は何も言いませんでした。

 

「父は何を考えていたんだろう?」そのあと私もずっと考えていました。

 

おそらく私が日本に行ってしまったら台湾に戻ってくるのは数年に一度になってしまうと考えていたのかもしれません。

自分の孫を見る機会もそれだけ少なくなってしまうのかと寂しい気持ちになったのかなと思います。

 

父から日本に行く許しが出たあと、母のMizukiへの態度も変わりました。

中国語の手紙を渡した日、初めて母は梨を剥いてMizukiに食べるようすすめました。

母のその変化に彼女はとても驚いた様子でした。

 

続く 車イスの人と付き合うことについて母が言ったこと その4 -母が日本を訪問-

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